毎日の中で出会ういろいろなことを徒然なるままに…♪
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以前から問題になっている体罰。
教育の場においてもスポーツにおいても、昔とは考え方が変わってしまいました。
どうして変わってしまったのか。
スポーツを教えたことのある身としては、体罰かそうでないかの違いはこのひとつにあると確信しています。
それは、愛情があるかないかのみ。
自分の子供であろうとなかろうと、本当にその子のことを考えてのことなのかどうか。
最近は親でさえ子供に充分な愛情をもてない人たちがいること、つまり真剣に子供のためになることを考えられない親がいること。
たぶん、これも事実なんだと思います。
昔と比べて、家庭という躾の場所と教育という学校の信頼関係も薄れ、片方が、またどちらも機能していない場合がこういう事態を招くのではないでしょうか。
受ける側が体罰と感じること。
これも信頼関係の欠如。
コミュニケーションの不足。
そう思えてなりません。
その場合は、やはり与える方の責任だと思います。
体罰という行為が必要なのかどうか。
スポーツの世界では当たり前のように行われていた時代もありました。
根性を鍛えるなどという名目で。
そして、そのスポーツの世界もまた変わってきています。
根性などということよりも科学的な方法で鍛えるということに。
科学的に分析し、理論に基づいた方法で技術を伸ばすことはできます。
でも、それではその根底に必要な精神力はどこから?
昔ながらのやり方が良いというのではなく、肉体も精神力も共に進歩しなくちゃ意味がありません。
叩かれても叩かれてもめげない、諦めない、そういう気持ちは本来は良い選手のもつ条件のひとつです。
ではそうでない人たちはどうすれば精神力を身につけることができるんでしょうか。
その人に合った方法で身につける必要があります。
褒めて伸ばすやり方、本当はこれが一番良いのでしょうが、上手くいかなければ他の方法を見つけなければなりません。
私は古いタイプの人間ですから、叱られたり怒鳴られることには慣れています。
時間が経つと、その人に感謝するようにもなります。
誰が好き好んで悪者になりたがりますか?
でも、そういう考え方もだんだん通用しなくなっているような気がします。
体罰にもいろいろありますが、受ける側のことをよく理解できていれば、そして与える方の考え方をちゃんと理解されていれば、そんなに問題になることなのか、と正直思います。
たとえ、本人同士以外の親などがなんと言おうと、です。
実際に、私自身は酷い体罰は与えたことはありませんが、これができなかったら向こうでこれを何回やってこい、などということは普通でした。
今ではこんなものも体罰とか言われそうですよね。
でも、その目的を予め明確にしておく、日頃から私の考え方を理解してもらう、ということは怠ったことはありません。
何のためにやるのか、やる気があって来ているのか、これを常に意識させておくことが大切です。
最後に、教える側も昔とは変わってしまっているのかもしれません。
必要でない体罰、ストレスを晴らすための体罰はもっての他ですが、仕事として割り切ってしまってしまえば、本当の意味の”教える”ということはできない、と考えています。
人間として丸ごと引き受ける、という覚悟がなければ、たとえスポーツの世界だとしても良い結果は得られないと思っています。
教育の場においてもスポーツにおいても、昔とは考え方が変わってしまいました。
どうして変わってしまったのか。
スポーツを教えたことのある身としては、体罰かそうでないかの違いはこのひとつにあると確信しています。
それは、愛情があるかないかのみ。
自分の子供であろうとなかろうと、本当にその子のことを考えてのことなのかどうか。
最近は親でさえ子供に充分な愛情をもてない人たちがいること、つまり真剣に子供のためになることを考えられない親がいること。
たぶん、これも事実なんだと思います。
昔と比べて、家庭という躾の場所と教育という学校の信頼関係も薄れ、片方が、またどちらも機能していない場合がこういう事態を招くのではないでしょうか。
受ける側が体罰と感じること。
これも信頼関係の欠如。
コミュニケーションの不足。
そう思えてなりません。
その場合は、やはり与える方の責任だと思います。
体罰という行為が必要なのかどうか。
スポーツの世界では当たり前のように行われていた時代もありました。
根性を鍛えるなどという名目で。
そして、そのスポーツの世界もまた変わってきています。
根性などということよりも科学的な方法で鍛えるということに。
科学的に分析し、理論に基づいた方法で技術を伸ばすことはできます。
でも、それではその根底に必要な精神力はどこから?
昔ながらのやり方が良いというのではなく、肉体も精神力も共に進歩しなくちゃ意味がありません。
叩かれても叩かれてもめげない、諦めない、そういう気持ちは本来は良い選手のもつ条件のひとつです。
ではそうでない人たちはどうすれば精神力を身につけることができるんでしょうか。
その人に合った方法で身につける必要があります。
褒めて伸ばすやり方、本当はこれが一番良いのでしょうが、上手くいかなければ他の方法を見つけなければなりません。
私は古いタイプの人間ですから、叱られたり怒鳴られることには慣れています。
時間が経つと、その人に感謝するようにもなります。
誰が好き好んで悪者になりたがりますか?
でも、そういう考え方もだんだん通用しなくなっているような気がします。
体罰にもいろいろありますが、受ける側のことをよく理解できていれば、そして与える方の考え方をちゃんと理解されていれば、そんなに問題になることなのか、と正直思います。
たとえ、本人同士以外の親などがなんと言おうと、です。
実際に、私自身は酷い体罰は与えたことはありませんが、これができなかったら向こうでこれを何回やってこい、などということは普通でした。
今ではこんなものも体罰とか言われそうですよね。
でも、その目的を予め明確にしておく、日頃から私の考え方を理解してもらう、ということは怠ったことはありません。
何のためにやるのか、やる気があって来ているのか、これを常に意識させておくことが大切です。
最後に、教える側も昔とは変わってしまっているのかもしれません。
必要でない体罰、ストレスを晴らすための体罰はもっての他ですが、仕事として割り切ってしまってしまえば、本当の意味の”教える”ということはできない、と考えています。
人間として丸ごと引き受ける、という覚悟がなければ、たとえスポーツの世界だとしても良い結果は得られないと思っています。
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